究光塾リポート

第二十九回 究光塾リポート 

2019年02月08日

< 講師 中村より お伝えしたこと 抜粋 >

 

☑ 論理的にものごとを考える  ~ 理系と文系の違い ~

これはよく申し上げることなんですが、大きな会社さんに行かせていただいて、私がいつも感じるのは、特にメーカーの商品開発や技術開発をしている方々っていうのは、ものすごく言葉に対して敏感です。研修の中などで、私が発した言葉に関しても、「先生、今おっしゃった言葉の意味は、こういうことですか?」と、確認の質問を受けることもあるので、私自身、体感しているんですけれども・・・。やはり、理系の方のほうが言葉に対するこだわりを持っておられるように思います。 逆に、文系の方は、言葉の扱いが非常に雑ですね。感覚的なものとして言葉を使われる。

 

たとえば、小説なんていうのは、読み手によって感じ方が違うじゃないですか。でも、技術者や科学者が書く文章というのは、誰が読んでも同じように理解できるものでないといけないわけです。たとえば、「この化学反応は、こう起こります」ということは、誰が読んでも同じような理解ができないと、化学的な証明にはならないんです。数学もそうでしょ、基本的な言葉があって、教師や講師がそれぞれ分かり易く噛み砕いて伝えることはあっても、まずありきは基本的な言葉・・・海外の数学者が導き出したものも、日本語に訳したときには、どの数学の先生も同じ言葉を使うわけですよね。

理系と文系の違い、理系では、基本的に、皆が同じ定義で、同じ意味合いで、定義どころか、定理・公理といわれるものが前提にあって、理系の科目っていうのは成り立っているんです。だから、「再現性」というものがあるんです。誰がやっても同じ結果が出る。一方、文系は、経営でも、たとえば、ニーズという言葉をとってみても、ニーズとは本来はマーケティング上で、学術的に定義づけされている言葉があるんですけれども、世の中で、本来のニーズの意味を分かって使っておられる方って、果たしてどれくらいいらっしゃるんでしょうね。「お客さまのニーズがね・・・」という言葉をよくよく耳にしますが、ニーズの意味をきちんと分かっていないまま使っていたりするわけですよ。ですので、私は最近、よくこう言って突っ込みを入れるようにしています。「ニーズって、どういう意味で使ってらっしゃいますか?・・・では、『ニーズ』と『ウォンツ』と『シーズ』の違いを、それぞれ説明してください」って申し上げると、皆さん、黙ってしまわれる。「いや、分からないです」「では、今、ニーズって、どういう意味で使ってらっしゃったんですか?」「いや、分からないです・・・」「分からない言葉を使っておられるんですか?・・・ましてや、お客様が大事だ、と言っておきながら、そのお客様のニーズの『ニーズ』の言葉の意味が分からないのに、どうしてお客様のニーズが分かることになるんですか?」と申し上げるんですね。非常に厳しい、いじわるな問答に聞こえるかもしれませんが、実際、そうじゃないでしょうか? 結局、地に足の着いていない、いわゆる空中戦をやっているわけなんですね。それでは、絶対に、お客様のニーズって掴むことはできないと思うんです。どうしてこういうことが分かってきたかと言いますとね、たとえば、お客様のニーズという言葉、大きな会社さん、メーカーさんなんかだと商品開発をされています。新商品を作るときに、商品開発に携わる全員が、お客様のニーズという言葉の定義をきちんと共有していなっかったら、商品開発の議論もできないわけなんです。

 

そして、結局、そういうことをしていかないと、つまり、言葉の定義を明確にしてものごとを考えていくということをしないと、これからの時代、簡単にAIにとって代わられてしまうんです。なぜなら、AIの方が、定義をどんどんどんどん覚えさせることが簡単なんですから・・・。覚えることは、AIの方が人間よりもはるかに得意です。そして、その定義をもってして判断しなさい、ということもできる。ただし、そこから何かを生み出していくということは、まだAIにはできない。

読解力ということもそうです。言葉の意味を分からずに、文章を読んでいても、それでは理解したことにはならないわけですよね。書いてある言葉の意味が分からないのに、読んで分かるのか?という話なんです。たとえば、ハングル文字の知識もないのに、ハングルの言葉の意味も分かっていないのに、ハングル文字が書いてあるものを読もうとしても、それは文法以前の話だ、ということになるでしょう。だから、文系の人間は、「感性だ」「感覚だ」と言われる部分があるんですけれども、その感性や感覚が飛び抜けている人であれば良いんですけれども、そうでない人たちは、AIにとって代わられるということになる。たとえば美術とか芸術的な分野では、「感性だ」「感覚的だ」という意見があるんですけれども、でも、すごい芸術家ほど、基礎を大切にしていますから、美術の理論などをきちんと学んだうえで、非常に写実的な絵を描けるようになって、それから自分独自の絵を描けるようになっていく。以前に「守破離」という話をしましたけれども、そういうことなんでしょうね。

 

繰り返しになりますが、理系の科目では、基本的に、皆が同じ定義で、同じ意味合いで、定義どころか、定理・公理といわれるものが前提にあって成り立っています。だから「再現性」というものがある。誰がやっても同じ結果が出るということです。でも、文系の科目というのは、経営でも、やる人(経営者)が変われば、結果が全然変わるわけです。だから「科学ではない」ということを科学者からは言われるわけなんですね。経営とか経済の研究者は、それを何とかできないか、と真面目にしておられる方もいらっしゃいます・・・。我々の立場では、「経営には、そもそも再現性なんて無理なんだから、言葉なんて堅苦しいことを...」などと言っていると、余計にそこから置いて行かれると思います。これから、日本のみならず世界においても、マネジメント・経営といったものも、AIが出てくれば出てくるほど、AIにできることと・できないことを社内で明確にしようと思えば、言葉というものでAIにやらせることをインプットしていかないといけないわけですから、業務も言葉を明確にして進めていかないと、逆にAIを活用することもできなくなると思います。そして、そういうことを代行する企業、今でいうところのシステム会社のような企業、AIを汎用的に利用していくサービス提供を謳う企業が出てくると思います。そうすると余計に、どの会社も画一的なものになっていくわけです。では、何で他社・他者と差をつけるか?となると、AIができない、人間にしかできないところで差をつけないことには、どこに行っても競争に負けるということになっていくと考えられます。

厳しい世の中ですね。でもそれは、時代時代でそうなんです。たとえば、私たちが社会に出て直ぐの頃には、パソコンというのも皆が使える時代ではありませんでした。そして、パソコンが世に広まっていくにつれ無くなったお仕事って沢山あるんです。私が社会に出た頃は、キーパンチャーといって、手書きで書いた原稿を、文書として打ち込むことが仕事であった方も、まだ実際にいらっしゃいました。でも、その仕事は、今はもう無くなっています。自分で打ったり、兼任で秘書みたいな人が打つ場合もあるでしょうけど、キーパンチャー専属というお仕事というのはなくなっている。でも、仕事がなくなったから、キーパンチャーしていた人が皆、手をあげたかというと、その時その時に、「じゃあ、自分のできることはなんなんだろう?」ということで、皆、その環境に適応していっていますので、必要以上に恐れることはないんでしょうが、どういう風に変わっていっているのかということは、きちんと認識していくべきだろうと思いますね。

 

 

☑ 論理的にものごとを考える  ~ 論理的思考とは「分ける」こと ~

ものごとを論理的に考える、論理的な思考能力が高い人というのは、いわゆる「分ける」ことができる人なんです。論理的な思考能力が弱い人というのは、「分ける」ということができない。たとえば、戦略やマーケティングを考える際には、「グルーピング」ということをします。グルーピングとは、バラバラな情報を、共通している情報どうしを集めて分かりやすく整理することです。そして、そのグルーピングの切り口のことを「クライテリア」と言います。論理的な思考能力が高い人というのは、いろいろな観点からグルーピング、つまり、分けることができる。「こういう観点で分けることができますよね」ということもあれば、また違った「こういった観点で分けることができますよね」ということが考えることができるわけなんです。

「クリティカルシンキング」とは、批判的な思考、批判的にものごとを考えるという意味合いですが、本来的に、論理的にものごとを考える際には、クリティカルにものごとを考える、ということが必要になるんです。何故かというと、「自分の考えは偏っていないか?」「自分の思考したことは本当にこれで大丈夫か?」ということを、自分で考えていることを第三者的に見る、つまり、視座の転換をして自分自身の思考を見つめてみる、自分で自分を批評する。「自分の考えたことが本当にそれで偏っていないか?」を考えることが、批判的・批評的に考えるということで、クリティカルシンキングと言われているんです。自分と、それを批判的・批評的に見るもうひとりの自分、つまり、クリティカルシンキングができる論理的な思考が高い人は、自分自身を、「自分」と「自分を第三者的・客観的に見る自分」に分けることができているわけです。「今は、クリシンだよね~」と得意げに略して話すような方もいらっしゃって、クリティカルシンキングという言葉だけが独り歩きしているようなところもうかがえますが、上述した通り、根本的には、ロジカルシンキングを正確に実行するためには、クリティカルな思考が必要なんですよ、ということなんですが、儲けたいいろいろな業者が、論理的な思考は使い古されていますから、クリティカルシンキングという目新しげな言葉を入れているだけなんです。本来的に、ものごとを論理的に考えるためには、クリティカルな思考が必要になるということだと考えていただくと良いと思います。

 

ただし、ものごとを分けることができる、論理的な思考能力が高い人の中には、自分自身の考えていることがパーフェクトだという確信を持ち始めると、相手の感情に接したとき、「あなたの言いたいことはこういうことでしょ・・・」というのではなくて、「あなたの言っていることはおかしいよ」というだけになってしまう方がいらっしゃるんです。それは他人を攻撃するということではなくて、たとえば、泣いている人を見ると、「なんで、こんなことで泣いているの?」と思うわけです。というのは、人が悲しんだり、泣いたりする時というのは、自分の気持ちの折り合いがつかなかったり、それを割り切ることができなかったりするから、悩んだりとか、泣いたりするわけですね。でも、論理的な思考能力が高い人・完全にその能力が突き出ている人というのは、なんでも分けることができてしまう。だから、「これはこれで仕方ないよね」と割り切ることができてしまうので、別に悲しくなることも泣くこともないので、「なんで、こんなことで泣いているんですか?」ということになるんです。これまで私も沢山の方を見てきましたが、とんでもなく論理的な思考能力が高い人に共通している特徴のように思います。他人の感情が読み取れなくなってしまう。決して悪気はないんです。論理的な思考の高い人・完全にその能力が突き出ている人は、すべてがゼロかイチ、思考がデジタルですから、ゼロかイチしかない。でも、感情って、どのどちらにも属さない、ちょうどその真ん中なんですよね。

 

また、かつてオウム真理教事件というのがありました。オウム真理教の幹部と言われた面々は、皆、高学歴だったんです。彼らは論理的に、ものすごく頭が良いんです。でも論理的に飛び抜けている人の弱点というのは、論理で返されると信じてしまう。「正しいか間違っているか」とか、「人にとって良いことをしているか悪いことしているか」ではなくて、理屈が通っていると、コロッとやられてしまう。それで信じ込んでしまうというのが、論理的に思考能力の高い人の一つの特徴なんだと思います。論理立てていることと、世の中にとって正しい・間違っているということとは関係ないんです。論理が繋がっているかどうかで信じ込んでしまう。それが「正義か正義じゃないか」「善か悪か」ということは、論理が高すぎるとそこを考えない。逆に、ロジック、論理的に通っているか通っていないかだけで、信じ込んでしまう。で、一回信じ込んでしまうと、そういう人たちは論理がガチッと組み込まれてしまうので、そう簡単に剥がれない。ですから実際に、教祖が死刑になっても、未だに信じ込んでいる人がいる。そういう人たちは、案外、論理的な思考能力が高すぎて、一度繋がった論理というところから外れられなくなってしまう。「なんであんなに賢い人が・・・」とか、「なぜ医師の資格まで持った人が・・・」と言われました。ですから、上祐史浩という人、今も、ひかりの輪の代表としていますが、当時、「ああいえば、上祐」と言われたんですね。というのは、何を言われても全部自分たちのロジックで返していくわけです。 あの人は早稲田大学大学院の理工学研究科修士です。ですから、論理というものが全て正しいかと言うと、論理的には繋がっているけれども「人としてはアカンやろ」という論理もたくさんあるわけなんです。そこには、それに加えて正義感や倫理観が必要になってくるということです。

 

ですから、論理的な思考能力が高いから良いか、というとそうではなくて、過ぎたるはなお及ばざるがごとしで、低すぎてもダメだし、高すぎても困る、中途半端もまたシンドイんですけれども、どちらが良いというつもりはないです。私が申し上げたいのは、全部感覚だけで進めていこうとするのはダメですよ、論理を考えず思考停止状態で進めてしまってはダメですよ、ということなんです。でも、感性のお商売・感覚的なお仕事だと、今、考えられている分野でも、今後は、論理的な思考が間違いなく必要になってくると思います。たとえば、「あなたの感性にお任せするわ」と言われても、「こういう風な理由で、こうこうこういうふうなことでやりました」と、論理的にきちんと説明できた方が、論理的な思考能力が高い人に対しても納得してもらえる説明ができたほうが、お客様の幅は間違いなく広がるはずですから・・・。

 

 

☑ 論理的思考とコミュニケーション 

たとえば会話をしている相手の方から、「いや、この前ね、海外旅行に行ってきましてね、アメリカとローマに行ってきたんですよ!」という話を聞いたとき、皆さんは違和感を覚えませんか?いかがでしょう?

国と都市とを並べて話をしている、こういうふうな話をする人というのは、あまり論理的ではない人が多いです。イタリアとアメリカ、または、(たとえば)ニューヨークとローマ、というふうに揃えないと・・・、論理的な人というのは、そうしないと気持ちが悪いんです。でも、論理的ではない人というのは、平気なんです、だからダメだと言っているわけではないです。ご自身のなかでは感覚的な辻褄があっているんでしょうね。

ものごとを考えるって どうしてものごとを考える必要があるのかと言うと、結局、私たちは自己完結で生活ができるのだったら良いんですけれども、他人に自分の考えていることを伝えたり、他人が何を考えているかということを理解しないと、なかなか生活というのはしづらかったり、仕事というのはますますしづらくなっていくと思います。そうすると相手に分かりやすく伝えようと思うと、自分の立場からだけで見えているものを伝えるのではなくて、きちんと相手が理解できるようなことを明確にして、抽象度を合わせたりとか、分けることも相手が理解できる分け方にしてお話をしないと通じない。

また、相手が本当に言いたいことを理解しようとするのであれば、「アメリカとローマとおっしゃっているけれども・・・」 そこで、「いや、それおかしいでしょ、アメリカとローマっていうのは・・・」と言うのではなくて、「アメリカとローマに行かれたんですね、アメリカの何処に行かれたんですか?」と聞けば、「いやいや、ロサンゼルスに行ってきました」とか、「サンフランシスコに行ってきました」「ニューヨークに行ってきました」と答えが返ってきて、自分の中での違和感というのも解消できる。論理性の高いだけの人だと、「いや、あなた言っていることおかしいですよね・・・」とやってしまうので、相手の感情がわからない、こうなってしまう。感情がわかる人は、「アメリカの何処に行かれたんですか?」と、うまく質問することで、コミュニケーションがとれる。逆に、論理が高すぎるとコミュニケーションが取れなくなることもある。同じレベルの論理的な人としかお付き合いができなくなるんです。

 

コミュニケーションが上手な方というのは、コミュニケーションの講義の時にもご説明したように、聞き方であったり、良い質問を投げかけます。ですから、戦略でもどうして論理的に考えなきゃいけないのか、コミュニケーションをとるにおいてもどうして論理的なところが必要になるか、それは、それぞれ単独で、縦割りで、成り立っているのではなく、繋がっているということなんです。先般より、リベラルアーツという話もよくしますが、音楽とか芸術とか、ああいったものも全て繋がっているんだと思います。どうして数学が大事なのかと言うと、「そんなもの、すべて数字で表すことなんてできない」とおっしゃる方がいるんですが、それは数学という学問について不勉強なだけであって、数学者というのはものすごく言葉にこだわるんです。我々が知っている数学というのは、誰かが考えた方程式に、数値を当てはめて、相手が意図している数値を導くことをやっているだけであって、本来の数学というのはそうではなくて、答えのないことを考えて、それを誰が考えても同じ答えになるよね、ということを考えている人たちが本当に数学をしている人なんです。その人たちが考えているものを、我々は単に後追いをして、こうやったら答えが出ますよねと、答えを出すという、後追いをしているに過ぎないんです。たとえば、「1+1=2」というのは誰がやっても「1+1=2」なんです。でもそれを発見した人がいるんです。我々は発見されたことを覚えているだけであって、決して考えているわけではない。数学をやっているわけではないんです。1+1はなぜ2になるか?ということを誰が聞いてもわかるように説明できる人が本当に数学の分かっている人だということです。

 

 

☑ MECE  ~ モレなくダブりなく ~

MECE(Mutually Exclusive Collectively Exhaustive)とは、モレなくダブりがないこと、ミーシー、ミッシーといいます。 マッキンゼーという、それこそ東大の理系の大学院を出たような人とか、弁護士の資格を持ったような人がコンサルティングの仕事をしている組織です。医師免許を持ってらっしゃる人もいらっしゃると思います。そういう人たちが、あえてその仕事をせず、コンサルタントをしている。そういう人たちを率いている組織がマッキンゼーという会社です。例えば DeNA の創業者の南場智子さん、あの女性も、マッキンゼー出身ですね。で、何かと言うと、この  MECE というのは、マッキンゼーの社内用語なんです。マッキンゼーの人たちが、自分たちが問題を考える時に、このMECEを使っている。3C という言葉も聞かれたことがあると思いますが、3Cというのも、大前研一さんがマッキンゼーにいた時に考え出したものです。あの方々がカッコイイのは、「これは、私が考えたんです!!」って、自分たちでは言わないんです。なぜなら、自分たちが頭を整理するために社内的に使っていただけだから・・・。MECEで考えることが目的ではなくて、お客さんのところで何か提案する際などに、モレやダブりがないか、その準備のためにこれを考えているわけですから。決して、これを売り物にしているわけではないんですね。

学者さんは、自分の功績を残さないといけないので、こういうフレームワークは全部自分が考えました、と言うわけなんですけれども、すごいコンサルティング会社のすごい人たちというのは、「別にこれは方程式でも何でもないから・・・」「このMECEという言葉を知っていても、方程式のように誰でも使いこなせるわけではないから、これは完全なものではない・・・」と言うわけなんです。逆に言うと、「お前らには使いこなせへんやろう」と言われているようにも聞こえますね。「この言葉の意味はなんとなくわかっても、実際にこれを運用することはできないでしょ、ある一定レベルの元々の頭の良さがなかったら使いこなせませんよ」ということを言っているのだろうと私は解釈しています。

 

たとえば、人間を分けるとすると、最近は、トランスジェンダー、性同一性障害ということも聞かれますが、基本的に戸籍上は男性か女性しかありませんから、戸籍上で分けて行くと、「男性の既婚」「男性の未婚」「女性の既婚」「女性の未婚」で分けると、これはMECEになっている、分かり易い事例では、こういうことです。

現状を把握すること、政治的な環境・技術的な環境を把握するというのは、これから自分たちの商売がどうなっていくのか?を考えるからです。技術はどうなっていくのか?ということを考えているから、トヨタという会社が、(あれは普通にドメイン設定を変えただけなんですが・・・)、トヨタモビリティ宣言というCMをね・・・。あれは、トヨタという会社であれば当たり前の話で、移動に関するもの全てに関わりますよということ。車だけでは食べていけない、広げていくしかない、こういう発想ですよね。将来を考えると、自動車というものだけではもうダメだから、これをMECEで考えて、移動手段全部と言い出したわけなんですね、これも論理的にものごとを考えているわけです。

 

このMECEについて、私がよく申し上げるのが、ヌケモレがあるぐらいだったら、ダブリがあっても良いということ。逆に言えば、ヌケモレを無くすのがまずは大事で、ダブりは少々あっても後で取り除けば良いんです。でもヌケやモレがあると、致命傷になる可能性がある。それだったら、あれも必要じゃないか、これも必要じゃないか、まずはダブりがあるぐらいの状態で、モレをなくして、そのうえで、そのダブリの部分を取り除いていくほうが、現実的なMECEになりやすいと思います。それが、どうしてもコストなどを優先してしまうと、ダブりはもったいない、ということで、先にそちらに意識が行ってしまうことによって、モレやヌケが発生してしまう可能性が高いですから、このMECEというものを現実的な場面で実現しようと思うと、ダブりというものは、ある程度許容していく方が良いでしょうね、ということになるんです。

 

 

☑ 論理的思考の必要性

この究光塾も30回を迎えようとしていますが、これまでの講義のなかで、「原因分析が大事ですよ」「原因を分析しないといけませんよ」ということを申し上げてきました。「あるべき姿と現状とのギャップが問題で、いきなり対策を打っちゃダメですよ、原因を特定してからですよ・・・」というお話を今まで口酸っぱく申し上げてきました。原因を特定しないといけない。でも、もう一段高いところに登ると、この原因を考える時にも、今回申し上げているような考え方をしながら原因を追求していかないと、本来の原因というものは見つからないですよ、ということなんです。人間というのは、自分の思い込みとか、自分の見える範囲だけでものごとを考えてしまうものです。だから視座の転換というものが大事になってくる。自分の偏った考えで、いくら原因分析をしても、結局は自分の見えているところだけ、自分の関心のあることだけで、視野の狭い原因分析になるので、解決につながりませんよということなんです。または、自分の答えありきで、その答えに誘導するために原因分析をしてしまう。それでは周りの納得性が全く得られなかったり、理解をしてもらえなかったする。

我々は、いろいろ角度から、いろいろなものごとを見ていくことをしていかなければなりません。これが、なかなかできない。でも、これは年齢で頭が固くなっているとか、そういうレベルの話ではないです、普段からそういう思考をしていないから出てこない。論理的というのは、理屈っぽく聞こえるかもしれないんですが、違うんです。"論理的っぽい"人が、理屈っぽく聞こえるんです。本当に論理的な人というのは、言葉の定義を理解して正しく使い、細かな条件づけをしっかりとしたうえで話をなさいます、そうしなければ、他人には通じないことを分かっておられるからです。そして、こうした思考ができないと、複雑化・多様化ということがいろいろなところで言われてますけれども、これからの時代に余計に対応できなくなりますよ、ということをまず皆さんにはご認識いただきたいんです。

 

私自身、以前から、経営管理をきちんとしていこうと思うと、なぜ論理的に考えないといけないのか、なぜロジカルシンキングが重要なのか、を考え続けてきているんですが、結局のところ、自分の会社の戦略を考えるとか、マーケティングを考えるとか、マネジメントを考えるとか、人の育成を考えるとか、いずれを考えるにあたっても、偏った自分の関心事項とか、自分の見えている範囲内だけで、それらの方法を考えても、非常に偏りのあるものだから、それに乗っかることができる人もいれば、乗っかれない人もいらっしゃるわけなんです。そうすると、これからの世の中、人がどんどん減っていくとなれば、いろいろなタイプの人たちを理解できるようなことをしなければ、いろんなタイプの人たちに適応するプランが立てられなかったりとか、当然のことながら、戦略を考えるうえでも、偏って、答えありきで「こういう戦略だよね」とやってしまうと、結局、会社というのは発展していかないんだろうな、と考えるようになっています。

< 第三十回 究光塾へ続く・・・ >

 

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