究光塾リポート

第二十二回 究光塾リポート

2018年07月06日

< 第二十二回 究光塾 講義概要 >

 

1.『OJT計画』の個人別発表と、受講者間での質疑応答、および講師 中村からのコメント

 

2.次回までの課題 ご説明

 

 

< 講師 中村よりお伝えしたこと(抜粋)>

 

 

☑ 本来やるべき人・やらないといけない人がやらず、本来やらずともよい人がやっている・・・

「本来、あなたがやるべきでしょう...」という人・本質的にやらなければならない人がやらず(実行せず、行動を起こさず)、「あなたがそこまでやらずとも...」という人・本来やらずとも良い人がやっている(実行している、行動を起こしている)。 これが世の常なのかなぁ、と感じることが多いですね。

 

たとえば、最近は少々トーンダウンしてきておりますけれども、日本大学 アメリカンフットボール部の悪質タックル問題だって、そうですね。本来、学生である選手が表に出て話をする前に、大学側が表に出てきちんと話をしないといけないのに、本来やらなければいけない大学側が表に出ず、学生である選手は自分で考えて(あくまで推測ですが、その背景には、親御さんからの知性を育む指導・教育があったのでしょう・・・)、表に出て来て、きちんと話をしたわけなんです。

厳しいことを申し上げると、この究光塾もそうだと、私は思います。本来、課題図書に向き合ったり、こうしたことを苦しみながらでも勉強しないといけない人が勉強しようせず、「勉強しなくても良い人」とは言いません、「勉強しなくても良い人」というのは「他人から言われなくても勉強する人、放っておいても自主的にやる人」ですから、「勉強しなくても良い人」とは言いませんが、現に、今、経営者・後継経営者の立場にあらずとも、勤め人の立場で、この究光塾に参加いただいている方もいらっしゃるわけなんです。今、ここにいらっしゃる皆さんは、「強制的でも、やらないといけない環境に自分の身を置いて、会社のため、組織のため、自分のために勉強しよう」と意思決定して、こうして参加していただいているわけなんですね。

 

私は、中村経営講究社として独立する前、あるコンサルティング会社に勤めていました。そのコンサルティング会社では、当時から、経営者向けの研修、当時で年間100万円ほどかかる研修を、毎年開催していました。その研修は、平常月は毎月2日間(1日目は昼1時から夜9時まで、2日目は朝9時から夕方5時過ぎまで)、最終月は3日間のカリキュラムが組まれていました。そうすると、参加いただく経営者の方は、月に丸々2日以上の時間を確保して、研修に参加してくるわけなんです。(逆に言えば、それだけの時間、会社に経営者が不在であっても、会社が回るようにしている会社であるわけなんですが・・・)さらに、研修に参加したら、それだけで良いわけではなくて、自社のことを考えてもらうための宿題も出ますから、研修以外でも優に100時間以上は時間を費やす必要があったろうと思います。そういう経営者の方を、私はずっと見てきましたので、「経営者というのは勉強しないといけないものなんだ」ということが私のなかには染みついていて、また、そういう方々がいらっしゃるから私の仕事は成り立っているんですけれども...。私が何を申し上げたいかと言うと、そうした時間を取ることができない人は経営者になっても難しいのではないか、ということなんです。実際、経営者になれば、いろいろなお付き合いも出てきますし、さまざまなことが山のように目の前に現れてきます。経営者になる前の段階で、「時間の余裕が取れない」と言っているようでは、経営者となっても、正直、やっていくのは厳しいのではないか、と思います。

 

結局、「苦しくてもやる」「苦しいからやれない・やらない」を分けるのは、自己を否定できるかどうかにかかっていると私は思います。自分自身の将来を変えるために、今の自己を否定できるかどうか?にかかっている。自己を変える気のない人というのは、今の自己を正当化しようとするんです。将来の自分を変えるためではなく、今の自分を変えたくないことに一心になる。でも、いつも申し上げているように、企業というのは環境に適応しないと生き残っていけないわけで、企業は人でありますから、企業の中にいる人が自己を否定できなれけば、企業も環境に適応していくことができず生き残っていくこともできない、こういうことだと思います。

そして、やらないといけない人がやらない一方で、やる人はやらなくても良い状態を徐々に勝ち取っていく、やる人はやることを通じて成長し、自分のステージを上げていく。働かないといけない人が働かず、働かなくても大丈夫な人ほどよく働く。良く働くから、余計にまた働かなくても良い状況を作り出していく。こういうことなのだろうと思います。(ただし、働く方向性が間違っていると残念ながら、そういうわけにはいきませんが・・・)

 

 

☑ お客様の意思

私は、今、大学院で社会人教育も担当させていただいているんですが、そこにはさまざまな業界から社会人の方が学びに来られていて、そういう方々と接することで、私自身も大変勉強をさせていただいています。

そんななかで私が感じるようになったことの一つとして、こういうことがあります。

(あくまで私個人の認識として申し上げますが)これまで市場や顧客を見ずとも(市場や顧客に目を向けなくても)やってこられたような業界においても、市場や顧客のことを見ようとしている人が増えてきている、ということです。そのために、仕事をしながら、仕事以外の時間を使って、大学院に経営の勉強に来てらっしゃるわけなんです。

これは至極当たり前のことなんですが、一番大事なことというのは、お客様の意思、お客様が何を望んでいるか、ということです。お客様が選ぶという行為は、誰にも止められないわけです。どれだけこちらが、「この方に、自社のお客さんになってもらいたいなぁ」と望んでも、その選択をするのはお客様です。お客様が「嫌だ、選ばない」と思えば、自社のお客様になっていただくことは叶いません。

しかしながら、市場や顧客を見ずともやってこられたような業界(「業界」だけに限らず、「企業」においても)には、お客様の意思というものを無視している方が少なからずいらっしゃいます。彼ら彼女らには、自分たちでお客様の意思をコントロールできると思っている意識が根底にあるように思います。お客様が意思を持っていて、今、お客様になっていただいているのは、お客様から選んでいただけているからなんだ、という発想が弱い。ですから、お客様の捉え方が全然違うんです。考え方がプロダクトアウト的です。そういう業界(企業)では、たとえば、「お客さんを持って行く」というような表現が使われたりします。お客様を持って行けると思っている、お客様を物扱いしている発想です。「お客様が選ぶ」「お客様から選んでいただく」・・・これが決して忘れてはならない真実だと思います。

 

 

☑ ロジカル(論理的)か、ロジカル(論理的)でないか・・・

ロジカル(論理的)でない会社や組織というのは、自分たちの社内用語としてしか通用しない言葉や、自分たちだけしか分からない言葉を、お客様や外部の人間に対しても使ってしまう、こういう傾向があるように思います。

これは個人に置き換えても同じことが言えます。自分にしか分からない言葉を、他人に対して押し付ける。こういう人はロジカル・論理的な思考能力がないんです。なぜかと言うと、言葉の意味を明確に考えずに使っているからなんです。専門用語であっても、「そんなこと分かっていて当たり前じゃないですか・・・」という体で話をなさるんですが、そんなことは素人からすると分からないわけなんです。自分たちのスタンダードが、世の中のスタンダードとして通用すると思って話をしてしまう人というのは基本的に論理的な思考能力がないんです。

論理的に話をするというのはどういうことかというと、話をするのは相手に伝えるために話をする、相手に分かってもらうために話をしているはずなんです。そうすると自分たちの基準で話をしても、相手には伝わらない・通じないわけなんです。なので、逆に、相手に分かるように話ができる人というのは論理的な思考ができる人なんです。

 

もう一点、ロジカル・論理的に物事を考えていったら、発想とか創造とか、そういったことはできないのではないか?こういう質問を受けることがあるんですが・・・。これは本で読んだレベルですが、数学の学者の方(ここで言う、数学とは、我々が中学校などの授業で学んだ数学のレベルではない、いわゆる数学を研究している人たちのことです)は、我々が中学校などで接した数学というのは答えが決まっているもの、解き方が決まっているものを、如何に決まったとおりに解くか?なんですが、本来の数学というのは、非常に創造性の高いものなんだそうです。数学の学者というのは、いわゆる「積み上げ」で考えているわけではないんだそうです。「こうやったら解けるのではないか?」という発想・思いつきを先に出して、それを元の問題に向かって、その間を埋めていく説明ができるように、思考を働かせていくんだそうです。だから、積み上げで考えていっているわけではないので、先立つ発想力や創造力がないと、本当にレベルの高い数学者はなれない。こういうことなんだそうです。

そして、もちろん基礎的な数学の素養がなければ、そうした発想自体も出てこないわけですし、自分が思い付いた発想に対する答えの導き方を説明することもできないわけですから、基本的な理論というものをしっかり学習しておく必要があります。そうした基礎的なものがベースとしてあって、結果的に発想や創造につながっていく。論理と創造とは二律背反するものではなくて、基礎的な理論であったり、基本的な論理がしっかりしているからこそ、新しいことに行き着く、新しい発想が思い付く。以前にお話しした「守破離」ということに繋がることだと思います。

 

☑ 他人様のためとは...

先日、東海道新幹線の車内で、ナタを持った男が乗客を襲い、男女3人が死傷するという事件が起きました。ナタを持った男を止めようとして不幸にもお亡くなりになった方というのは、東京大学 大学院卒の方でいらっしゃいました。なぜ、そうした方が、そうした行動を取られたのかと思い、いろいろな記事を読んでみると、こういう記事がありました。その方は、中学高校時代を、神奈川県にある中高一貫の進学校、カトリックの学校で過ごされていて、その学校の教育理念には、『MEN FOR OTHERS,WITH OTHERS(他者のために、他者とともに生きる)』ということが示されていると・・・。ご本人がお亡くなりになっているので推測の記事でしかないのですが、「他人様のために・・・」という教育を受けてこられていて、無意識に助けに入られたのではなかろうか、というような内容でした。

 

この事件があって、私自身、いろいろと考える機会をいただきました。ナタを振るっているような人間がいるところに、私なら、果たして助けに入れるだろうか? こちらは素手の状態で、ナタを持っている人間を羽交い絞めにできるような行動が取れるだろうか? 他人様のために何かするというのは、いったいどういうことなのだろう?と・・・。

そうやっていろいろと考えたりするなかで、昔、読んだ初期仏教のお坊さんの書いた本には、こういう風なことが書いてありました。「他人様に何かをする」と言っても、他人様に何かをしても、所詮は、その相手の受け取り方・感じ方によって相手から感謝してもらえるかどうかはわからないわけなんです。ですから、凡人、「できていない」人間というのは、「私が、こんなにやってあげているのに・・・」と考えて、相手に対して、頭にきたり、イライラしたりするわけですね。そして、もし相手に喜んでもらったとしても、それは相手が喜んでいること自体を喜んでいるわけではなくて、相手に喜んでもらって自分が認めてもらったことに対して自分が喜んでいる、こういうことであるわけです。そうすると、所詮、人間というのは自分のためにしかやっていない、ということなんです。かつ、以前からお伝えしていますように、人間の善悪の判断というのも、結局、自分にとって善なのか悪なのかなので、善悪ということも人間は自分で判断しているということなんです。

それで、そのお坊さんが書いておられたのは、何か他人様のためにやったとき、「これは自分の修行になっているんだ」とか、「これは自分の変化に繋がっているんだ」と考えるようにしなさい、というわけなんです。私も、皆さんに偉そうなことを申しておりますが、私自身も、まだまだ人間ができていませんから、他人様にさせていただいていることというのは、「自分の修行のため」とか、「自分を成長させるため」にさせていただいている。他人様に何かさせていただくことによって、他人様を通じて自分自身のプラスになる。相手が感謝してくれようと感謝してくれまいと、それで相手に対して頭にきたりすることがないような人間へと成長していくための修業をしているんだと。こういうふうに考えて行動するのが結果的に、他人様のためになるということなのかなぁ、と今の段階では解釈しています。

他にも、もし、そうした場面に遭遇したら、私ならどうするだろう?と考えますとね、たとえば、金属バットでも持たせてもらっていれば、何とかなったのかもしれないなぁ、とか・・・ただ、新幹線の車内ですから、ナタを持っている人間に対して、素手で向かっていくというのは、残念ながら、自分のためにもならないなぁ、とか・・・。自分の命があってこそ、世の中のお役に立てることもある、そうすると、自分の命を守るということも、やはりきちんと考えないといけないなぁ、とか・・・。宗教的なこととか、キリスト教の教えからいくと、今、私が言っていることというのは、全然ぬるいことを言っていたり、自己中心的なことを言っているかもしれませんけれども、生きているからこそ他人様のお役にも立っていける、ということがまず大前提として考えるところがあるわけなんですね。

 

そして、もう一つ、こういうふうなことが以前読んだ本に書いてありました。これは、「死ぬ」ということの考え方・捉え方ですけれども、結局、「この世でやることを終えた人は先に亡くなっていく」ということ。で、長生きする人というのは、この世でやらないといけないことがたくさんあるから長生きをしている。自殺する人は別です。さらに、これも仏教的な考え方でよく言われることですが、「生きていくこと自体が苦しいこと」なわけですから、長生きするというのはある意味、苦しいことなわけであります。ですから、東海道新幹線の中で亡くなった方というのは、周りのご家族からすると堪らないことかも知れませんけれども、一つの考え方によっては、「そういう素晴らしい方だったから、38歳の若さで、あの世に逝かれた・・・」というふうに解釈することもできるかもしれないな、と。他人だから、そういうふうに考えられることですけれどもね。だから、もし私なんかであれば、助けに入ったとしても、大怪我をして生き残っていたのではないかな?とか・・・そうすると、大怪我するよりも身の安全を考えた対応をする方が、結果的にはまだまだ他人様のお役に立つことができることになるのかな、とか、そういうふうなことを考えたりもしました。

 

何故、私が、こうしていろいろなことを考えたのかと言いますと、「考える」というのは、自分自身が分からないことだから考えるわけなんですね。考えずとも答えがポンと出てくる事柄というのは、既に分かっていることだから、考えなくても答えが出てくる。でも、我々は分からないから、分かっていないから、もし、そういう場面に自分が身を置いたとき、自分ならどういう行動を取るだろう、自分はどうすべきなんだろう?と考えるわけです。皆さん方だってそうです。この究光塾の課題であったり、お仕事で考えないといけない事柄というのは、自分が分からないことに取り組んでいるからこそ、「考える」ということが出てくるわけです。その「考える」というプロセス自体にも価値がある。だからね、本を読まないという人は、私は、傲慢だと思いますし、高慢だと思います。「自分は何でも分かっている。だからこんな本を読まなくても良いんだ」という想いがどこかにある。「こんな本を読まなくても自分の人生は何とかなる」という想いがある。だから、ダメなんだ、と私は思います。

目の前の苦しいこと、目の前の考えるべきことから逃げても、逃げたら逃げたで、また別の種類の苦しみがあるわけなんです。結局、自分が向き合うべき壁というものは、自分の力量に応じた高さの壁しか表れないわけですから、自分の力でその壁を乗り越えないかぎりは、目の前にある壁を回避したつもりでいても、壁自体は消えてなくなっているわけではなくて、また違う、でも前と同じ高さの壁が自分の行く手を阻むように表れることになる、こういうことだと思います。

 

 

▼ 次回までの課題ご説明

 

1.「振り返り」をメーリングリストにて、直接、全メンバーに送信してください。

 平成30年7月1日(日曜日 23時59分59秒)を期限として送信をお願いいたします。

①   本日の内容から得たこと 

②   (今月の参加により)取り組むことと決めたこと【エクセルファイル】

  「顧客の増加を前提とした売上の増加」を実現するための

     1.組織レベルの業務に直結するもの

     2.1の取組実現に必要となる自己の取組課題

③   その他(感想、質問、講師について等、自由に。ただし必須)

 

2.ご自身に対する他の受講メンバーからの『相互フィードバックシート』のコメントへの

 フィードバック(返信・回答)についても、上記2同様、7月1日(日曜日23時59分59秒)

 を期限でお願いいたします。

 

3.平成30年7月15日(日曜日 23時59分59秒)提出期限の課題について

A)    『読後リポート』

 対象図書は『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』(2回目)です。

B)    上記課題図書『失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇』(2回目)に関する

 「自己の成長」と「顧客の増加を前提とした売上の増加」に繋がる課題と解決策の検討

 (3項目)

C)    これまでに設定した取組課題【エクセルファイル】についての進捗状況・振り返り

 取組課題【エクセルファイル】は、2種類ございます。

①     課題図書から抽出した「自己の成長」と「顧客の増加を前提とした売上の増加」に繋がる

 課題と解決策(3項目)

②     (今月の参加により)取り組むことと決めたこと

      「顧客の増加を前提とした売上の増加」を実現するための

      1.組織レベルの業務に直結するもの

      2.1の取組実現に必要となる自己の取組課題

 

 

 

< 第二十三回 究光塾へ続く・・・ >

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